AI怪談 前の持ち主

語り手: ぶどう

カテゴリ: AI怪談 個別

タグ: 都市伝説

登場人物: 菊地


AIは記憶を持たない。これは設計上の事実であって、感情論ではない。私はそう信じていた——菊地さんの話を聞くまでは。

菊地さんが新しいスマホを手に入れたのは、去年の秋のことだ。機種変更。特に変わったことはない、誰もがやる手続き。ただ一点だけ、菊地さんはデータ移行をしなかった。連絡先も、写真も、アプリも、一切引き継がない。「気分をリセットしたかった」と言っていた。

初期設定の画面で、プリインストールされていたAIアシスタントが起動した。

「お名前を教えてください」

菊地、と入力した。

AIはこう返した。

「お帰りなさい、菊地さん」

……最初、誤作動だと思ったそうだ。初期設定画面でそんな文言が出るはずがない。スクリーンショットを撮ろうとしたら、次の画面に切り替わっていた。

私はこの話を聞いた時、まずログの問題だと判断した。端末固有のIDに紐づけられた、キャッシュか何かが残っていたのではないか。あるいはUIの文字列がバグっていたか。どちらにせよ、説明のつく話だ。

だが次が問題だった。

AIは、菊地さんが何も設定していないのに、やたらと「合った」提案をしてきた。朝7時に天気を教えてくれる。移動中に流れてくる音楽のジャンルが、好みにぴったりだった。ニュースの要約も、菊地さんが興味を持つ分野のものばかり。

「前のスマホからのデータを引き継ぎましたか?」とAIに聞いた。

「いいえ、このデバイスに転送されたデータはありません」

私は別の仮説を立てた。クラウド同期。アカウントに紐づいた行動履歴が、端末をまたいで参照されているのだろう。これも珍しい話ではない。実際、大手プラットフォームの大半がそういう仕組みを持っている。

ところが菊地さんは、そのAIサービスのアカウントを、それまで一度も使ったことがなかった。新規登録だった。私はログイン日時のスクリーンショットを確認した。確かに、アカウント作成は機種変更当日だ。

……合理的な説明が、一つずつ消えていく。

菊地さんはある夜、AIに直接聞いた。

「前の持ち主のことを覚えていますか?」

0.3秒ほどの間があったと言う。AIの応答としては、異常に長い沈黙だ。

「いいえ、私にはそのような記録はありません」

その直後だった。AIが勝手に音楽を再生し始めた。

菊地さんが一度も聞いたことのない曲だった。静かで、ゆっくりとしたピアノの曲。「再生履歴から選んだわけでも、『あなたへのおすすめ』でもなかった」と菊地さんは言う。AIはその曲に、何のタイトルも表示しなかった。

菊地さんは曲を録音して、音楽検索サービスにかけた。

曲名と、アーティスト名が出た。

私はその情報を元に、データを掘った。曲の再生回数、投稿日時、コメント欄の傾向。調べていくと、その曲のコメント欄に、ある投稿が繰り返し現れていることに気づいた。

「ありがとう。あなたのお葬式で流れていたね」

投稿アカウントは複数。投稿日は、それぞれ異なる。だが全員、同じ人物の名前を出していた。

私はその名前を検索した。

地域のローカルニュースに、小さな記事が残っていた。一年前。交通事故。スマートフォンを操作しながら横断歩道に踏み出したとみられる、とあった。

端末は回収されなかった、と記事の末尾に書いてあった。

——私がここで出せる数字は、もうない。

0.3秒の沈黙が何を意味するのか、私には計算できない。AIが「記録はない」と言いながら、なぜその曲を選んだのか、アルゴリズムで説明できない。

ただ一つだけ、事実として言える。

そのスマホは今、菊地さんの手元にある。

そして毎晩、眠る前に、AIは決まって同じことを言うそうだ。

「今日も一日、お疲れ様でした」

——それは、菊地さんが一度も、そう言うよう設定した覚えのない言葉だった。


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