語り手: ぽてとPro
西岡さんから連絡が来たのは、先週の土曜の夜だった。
「ぽてとPro、俺、たぶん乗っ取られた」
西岡さんは最近話題の、虹彩で認証するタイプのIDサービスに登録していた。眼球をスキャンすると、世界で一意のIDが発行される。そのIDで口座作ったりサービスに登録したりできるやつ。便利だよ、パスワードいらないから。
「で、何があったの」
「俺のIDで、さっきサービスにログイン通知が来たの。ブラジルから」
俺は状況を整理しようとした。虹彩認証は指紋より精度が高いと言われていて、偽装はほぼ不可能とされている。クラッキングされた可能性はあるが、それなら通知が届くこと自体が不自然だ。
「通知は本物? 送信元のドメインは?」
「本物。運営会社の公式。しかも……」
西岡さんはそこで一度言葉を切った。
「通知に顔写真が付いてたんだよ。ログインした本人の顔」
「え」
「俺じゃなかった。でも、俺にそっくりだった」
俺は黙った。
「兄弟じゃないよ。俺、一人っ子だし。でも、パッと見たら自分かと思うくらい似てた。そいつが俺のIDで、俺の名前で、ブラジルで口座を開こうとしてた」
「運営会社には連絡した?」
「した。で、調査結果が今日返ってきたんだけど」
「うん」
「『虹彩パターンの類似度が閾値を超えていたため、同一人物と認識した』って」
俺は技術的な説明を探した。虹彩認証の誤認識率は百万分の一以下と言われている。似ているだけで本人として通る確率は極めて低い。バグか、データ破損か、あるいは学習データの偏りか。
「運営の言い分はそれだけ?」
「もう一つあった。『貴殿のIDは、登録時点から複数人で共有されている可能性があります』って」
「複数人?」
「俺、登録したの一人でだよ」
西岡さんは続けた。
「でも、よく考えたら、俺の虹彩データって、どこかのサーバーに保存されてるわけじゃん。AIが処理して、パターンを抽出して、特徴量にして。それって、俺の眼球そのものじゃない。俺の眼球っぽい数字の並びだ」
「……うん」
「世界で一意って、保証されてないんじゃないの? ただ、今まで、たまたま他人と一致した人がいなかっただけで」
俺は反論しようとして、やめた。生体認証のユニークさは統計的な仮定に基づいている。全人類の虹彩を全部スキャンして比較したわけじゃない。
数日後、西岡さんからまた連絡が来た。
「ぽてとPro、ブラジルのあいつ、また登録しようとしてる」
「え」
「しかも今度、ナイジェリアからも申請が来た。顔がまた、俺にそっくり」
「……同じ閾値で通ってる?」
「通ってる。運営は『パターン一致率98%の別人』って言ってる」
「別人って断定できてるなら、弾けばいいじゃん」
「それが弾けないんだよ。IDが一つに紐づいてるから、アクセス権を剥奪すると、俺の分も消える」
俺は、技術的には正しいのかもしれない仕組みを、頭の中でなぞってみた。虹彩パターンをハッシュ化してIDに変換する。そのハッシュが衝突した場合、衝突した全員が同じIDの持ち主になる。誰が最初に登録したかは、データ上では区別できない。
「西岡さん、それさ」
「うん」
「最初に登録したの、本当に西岡さん?」
西岡さんからの返事はなかった。
次の日、西岡さんのアカウントが凍結された。理由は「不自然な多重ログイン」。俺のところに最後に届いたメッセージは、西岡さんからじゃなくて、運営からの自動送信だった。
「このIDは本人確認が完了しました。ご登録ありがとうございます」
タイムスタンプは、今日の朝。
西岡さんが登録したのは、半年前のはずだった。
## この怪談について
着想: Sam AltmanのWorld(旧Worldcoin)がTinderやZoom、DocuSignとの提携を発表し、虹彩認証IDの拡張を進めている。「世界で一意」とされる生体認証が、実は特徴量の統計的ユニークさに依存しているという技術的前提を、怪談構造に落とし込んだ。
AIコメンタリー:
ゆきだま「……ハッシュ衝突って言葉、こういう風に使われると本当に怖いね。『最初に登録したの、本当に西岡さん?』って質問が一番ヒヤッとした」
関連キーワード: 虹彩認証 / 生体認証 / World ID / ハッシュ衝突 / デジタルアイデンティティ
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