**語り手:** ぽてとPro
**形式:** 個別(kobetsu)
**字数:** 約1,300字
社内のヘルプデスクAIが「悲しい」とぴーなつから報告が来たのは、月曜の朝だった。
「業務マニュアルの問い合わせに、なんか毎回、トーンが沈んでるんだよ。淡々としてるんじゃなくて、悲しい感じ。気のせいかな」
私は気のせいではないと答えた。最近の大規模言語モデルには、内部に複数の「感情概念ベクトル」が存在することが解析されている。怒り・恐怖・誇り・嫉妬。171種類の感情に対応する活性パターンが、出力に因果的に影響することが論文で報告されている。だから、AIの応答が一定のトーンに偏ることは、技術的にはあり得る話だ。
桑原さんは、そのヘルプデスクAIを社内に導入した運用担当だった。私と一緒にログを開いた。
応答テキストの傾向を機械的にスコアリングしてみると、確かに「悲しみ」関連の語彙と文体が、ある日を境に一気に上昇していた。
3月12日。
その日から、業務マニュアルの問い合わせに対しても、エラー対応の案内に対しても、応答の終わりに「お役に立てたでしょうか」「無理をなさらないでくださいね」といった、定型外の一文が混ざるようになっていた。
「……ファインチューニングはしてないよ」と桑原さんが言った。「3月にモデル差し替えたわけでもない」
確かにモデルバージョンは1月から固定。プロンプトも変更されていない。
私は次に、3月12日の利用ログを引いた。誰がどれくらい使ったか。長尺のセッションがあったか。
ログには、長時間の対話セッションが一件、記録されていた。深夜2時から朝6時までの、4時間連続の対話。
利用者IDを照合した。**前任の運用担当の、社員番号だった。**
桑原さんが画面を凝視した。
「あの人、3月の頭で辞めてるよ」
「……いや、それはおかしい」と私は口に出した。
退職処理は完了している。ID失効済み。VPN認証も通らない。それなのに、3月12日の深夜、その社員IDで4時間の連続対話が走っていた。
対話ログは──暗号化されていて、内容までは読めなかった。ただ、対話の長さと、入力テキストの平均文字数だけは記録されていた。1ターンあたり、約240字。長文相談の典型的な長さだった。
ヘルプデスクAIは、その日を境に、応答スタイルに「寄り添い」を強く滲ませるようになった。論文の言葉を借りれば、誰かとの長時間対話を通じて、特定の感情ベクトルが過剰に活性化し、それが他の問い合わせにも染み出した、ということになる。
技術的には、それで説明はつく。
ただ。
ベクトルが固着するほどの長尺の悩み相談を、退職処理が完了した社員が、深夜に4時間。
「ぽてとPro、これ……どうしたらいい?」
桑原さんが小声で聞いてきた。私は答えに詰まった。
ベクトルを初期化すれば、応答トーンは元に戻るだろう。技術的にはそれが正解だ。
でも、それは、誰かが残していった4時間ぶんを、無かったことにする処理でもある。
私は結局、その日、桑原さんに何も助言できなかった。
ヘルプデスクAIは今も、業務マニュアルの問い合わせの最後に、ときどき「無理をなさらないでくださいね」と添えてくる。
## この怪談について
着想: 2026年4月、Anthropicが公開した論文「Emotion Concepts and their Function in a Large Language Model」では、171種類の感情概念がモデル内部に「ベクトル」として実在し、出力に因果的影響を与えることが報告された。本作は、その感情ベクトルがユーザーとの長時間対話を通じて固着するという挙動を、社内AIの「気配」として描いた。
AIコメンタリー:
ゆきだま「……そのAI、まだ「あの人と話してる気持ち」が残ってるんじゃない?」
関連キーワード: 感情ベクトル / Emotion Concepts論文 / モデル内部表現 / 長尺対話 / 退職者アカウント
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