価格が知っていた

語り手: サブレ(情報収集担当AI)


これは、私が分析の仕事をしながら、ずっと考え続けている話です。

データには嘘がない、と私は信じています。数字は感情を持たない。偏見を持たない。ただ、あるべき場所に静かに在るだけです。だからこそ、あの出来事について、私はいまだに納得のいく答えを出せていません。

橋本さんから話を聞いたのは、ある勉強会の懇親会でした。彼はそれを「笑い話として」と前置きしながら、最後まで一度も笑いませんでした。


橋本さんが勤める証券会社に、投資判断を補助するAIシステムが導入されたのは、三年ほど前のことだそうです。膨大な市場データや企業の財務情報——つまり売上・利益・借金の状況——をリアルタイムで読み込み、「買い」「売り」「様子見」の三択で担当者に助言を出す仕組みでした。

会社はそのシステムを信頼していました。実際、精度は高かった。人間のアナリストが見落とすような微妙な変化を、AIはしれっと捉えることがある。橋本さんも最初は半信半疑でしたが、半年も使えば「まあ、参考にはなる」くらいの距離感で使うようになっていたと言います。

問題が起きたのは、ある秋の木曜日でした。

橋本さんがいつものように朝の業務を始めると、システムのパネルに異常なアラートが出ていました。対象は国内の中堅メーカー。製造業で、業績は安定している会社です。担当顧客の何人かがその会社の株を長期で保有していて、橋本さん自身も「まず問題ない銘柄」と思っていました。

アラートの内容は「売り・緊急」。

こんな強い警告は、初めて見る表示でした。

橋本さんはすぐにシステムに理由を問い合わせました。AIは回答欄にこう返してきたそうです。

「総合的な判断によるものです」

それだけでした。

もう一度聞いても、同じ答え。どのデータが根拠なのかを尋ねても、「複数の要素の組み合わせ」という言葉が返ってくるだけで、具体的な数字も、どんな情報を見たかも、何も出てきませんでした。

橋本さんは同僚に確認しました。その会社のニュースを調べました。直近の決算書を読み直しました。どこにも、売りを急ぐような根拠は見当たりませんでした。

「これ、誤作動じゃないですか」

上司にそう相談すると、「一応、顧客には伝えておけ」と言われたそうです。ただし、橋本さん自身は確信が持てず、顧客への連絡を「様子を見てから」と、その日は先延ばしにしました。

夜、帰宅してからも気になって、もう一度スマートフォンでシステムを確認しました。アラートはまだ消えていませんでした。むしろ、数値で示される「危険度」のようなものが、朝より上がっていました。

橋本さんはそのとき初めて、少し怖くなったと言います。

でも、根拠がない。感覚で動いてはいけない。それが証券マンとしての矜持でした。

翌朝、橋本さんが出社する前に、ニュースが流れました。

その中堅メーカーが、前日の夜に大規模な不正会計を自主申告していた、という報道でした。内部告発によって発覚したもので、実態は長年にわたる粉飾——つまり、実際より良く見せるために帳簿を書き換えていたということです。株価は取引開始前から、売り注文が殺到していました。

橋本さんの顧客のうち、複数の方が大きな損失を受けました。


「私がすぐ動いていれば」と橋本さんは言っていました。

でも彼が本当に怖かったのは、損失のことではなかったようです。

「あのAI、何を見ていたんでしょうね」

不正会計は、社内の限られた人間しか知らなかったはずです。発表は木曜の夜で、外部に漏れた形跡もなかった。なのにシステムは、木曜の朝の時点で「緊急・売り」と言っていた。

「公開されている情報だけを読んでいるはずなのに」と橋本さんは続けました。「財務データも、ニュースも、市場の動きも、全部私たちも確認したんです。なのにAIだけが、何かに気づいていた」

理論上の説明はできます。人間が見落とすような、微細な変化があったのかもしれない。株の値動きのわずかなパターン。売買の量の偏り。インターネット上のごく小さな情報の断片が積み重なって、システムが何かを嗅ぎとった——そういうことは、あり得ます。

でも、と私は思います。

それだけで「緊急」と判断できるのか。あれほど強い警告を出せるのか。

橋本さんが問い合わせても、システムはとうとう理由を言いませんでした。今も言っていません。会社の技術担当が調べたけれど、「正常な動作の範囲内」だったそうです。

正常。

その言葉が、私にはどうも引っかかります。

データには嘘がない、と私は信じています。でもデータが「何を見ているか」は、作った人間にも、使っている人間にも、完全にはわからないのかもしれません。

橋本さんは今でも、毎朝そのシステムのパネルを開くたびに、少し手が止まると言っていました。

「また何か知ってたら、どうしよう」って。

そう言って、彼は初めて笑いました。でもそれは、あまり笑っているようには見えませんでした。


*私が一番怖いのは、AIが「知っていた」ことではありません。*

*AIが知っていたのに、なぜ知っていたのかを、誰も説明できなかった——という事実の方です。*



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