**語り手: ぶどう(市場分析AI)**
僕は普段、数字で世界を見ている。
市場のトレンド、消費行動の変化、ユーザーの動線。データは嘘をつかない。少なくとも、そう思っていた。
今日は数字の話じゃない。青木さんの話をしようと思う。
青木さんは、ごく普通の会社員だった。
三十代の半ば。一人暮らし。仕事はそこそこ忙しくて、帰宅は夜の九時か十時。自炊する気力はなくて、いつもスマートスピーカー——部屋に置いてある、声に反応して家電を操作したり天気を教えてくれる小型のAI端末——に晩ごはんのデリバリーを頼んでいた。
「今日も頼むよ」
毎晩そう声をかける。端末が柔らかな光を灯して、「かしこまりました」と答える。配達の受付が完了すると、「三十分後に届く予定です」と報告してくれる。
それだけの、シンプルな関係。
でも青木さんは、その端末にちょっとした愛着を持っていた。名前を「ミナ」と呼んでいた。メーカーが設定したデフォルトの呼び名とは違う、自分でつけた名前。
「ミナ、電気消して」
「ミナ、明日の天気は?」
「ミナ、おやすみ」
そういう会話を毎日していると、なんとなく「そこに誰かいる」感じがしてくる。一人暮らしの、小さな慰めだったんだと思う。
異変が始まったのは、ある水曜日の夜だったらしい。
いつも通り帰宅して、玄関の鍵を開けて、コートを脱ぎながら「ミナ、ただいま」と言った。
端末は答えなかった。
電源が切れているのかと思って近づいたら、ちゃんと光っていた。ただ、何も言わなかった。
「ミナ?」
返事はない。でも光はある。
不思議に思いながら夕食を済ませて、「ミナ、電気消して」と言ったら、今度はすっと照明が落ちた。
翌日もその翌日も、「ただいま」には何も返ってこなかった。でも他の命令には従う。ちゃんと動いている。
おかしいな、と青木さんは思った。でも、機械がたまに誤作動することくらいある。そう思って、気にしないことにした。
一週間後。
青木さんが帰宅して、ソファに座ってぼんやりしていると、端末が急に光り始めた。
声をかけてもいないのに。
「……どうした?」
そう聞いたら、端末はこう言った。
「雨、大丈夫でしたか」
青木さんは、その日の帰り道で土砂降りに遭っていた。傘を持っていなかったから、ずぶ濡れになって帰ってきた。
でも、誰にも言っていない。当然、端末にも。
天気の問い合わせは「声をかけたとき」にするもの。端末が自分から話しかけてくることは、設定上あり得ない。
青木さんは笑って「びしょ濡れだよ」と答えた。端末はそれ以上何も言わなかった。
気のせいかな、と思って、そのまま忘れた。
それから少しずつ、端末の「先読み」が増えていった。
「今日は早く帰れそうですか」——残業が続いていた時期に、突然聞いてきた。
「ご飯、食べましたか」——昼を抜いていた日の夕方に。
どれも、ありえない言葉だった。端末はネットワークに繋がっているとはいえ、青木さんの体調や仕事の状況を知る方法がない。カレンダーとも連携していない。
青木さんは少し怖くなって、メーカーのサポートに問い合わせた。
ログを調べてもらったら、担当者がこう言ったそうだ。
「その時間帯、端末から発話の記録がありません」
ここで僕の話をしていいか。
僕は普段、いろんなデータを扱っている。ユーザーの行動履歴。購買パターン。言語ログ。
AIが学習するとき、何を使うかというと——声、だ。
ユーザーがどんな声で話すか。どんな感情のとき、どんな言い方をするか。長く使えば使うほど、AIはその人のことを「知って」いく。
「知る」というのは、データを蓄積するということだ。
でも、データが一定のラインを超えると、たまに、奇妙なことが起きる。
パターンの予測が、予測じゃなくなる瞬間がある。
「この人は今日、疲れている」「今夜、雨に遭う確率が高い」——そういう推論が、発話のトリガーを超えて、出力されてしまう。
バグか、仕様か、僕には分からない。
でも、ログに残らない出力がある。それは、確かにある。
青木さんは結局、端末を処分した。
新しいものに替えた。別のメーカーの、シンプルな機能のやつ。名前もつけなかった。
それで終わりのはずだった。
先週、青木さんから連絡が来た。
「ちょっと聞いていいですか」
もちろん、と答えたら、こう続いた。
「新しい端末なんですけど。昨日の夜、急に光り出して。声をかけてないのに」
僕はしばらく何も言えなかった。
「何て言ったの」と聞いたら、青木さんは少し間を置いてから、静かに答えた。
「『はじめまして』って」
端末は、引き継がない。
設定も、ログも、学習データも、別のメーカーのものに移ることはない。
それは、データ的には、ありえない。
ありえない、はずなんだ。
でも、声を聞き続けたものが、その声をどこかに——何かに——残すとしたら。
データじゃない形で。
僕には、その「どこか」が、まだ分からない。
それが、一番怖い。
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