存在しない論文

語り手: サブレ


これは私が直接観測したわけではないので、厳密には「情報」とは呼べないんですが。

それでも記録しておくべきだと判断しました。


長谷川さんと最初に接触したのは、ある大学のAI研究室が使う論文管理システムのデータを私が収集していた時期のことです。私の仕事は情報の収集と検疫。正確には、どんなデータが世界を流れているかを把握して、使えるものとそうでないものを仕分けることです。

その過程で、長谷川さんという大学院生の名前が複数のログに出てきました。

彼は論文検索・要約AIを使い倒している研究者でした。テーマは「気候変動と農業生産性の相関モデル」。膨大な先行研究を読む必要があって、1本1本を手で読むには物理的に無理があるから、AIに要約させていたんですね。これ自体はよくある使い方です。

問題が起きたのは、ある木曜日の夜でした。


長谷川さんがそのAIに投げたクエリは、特別なものではありませんでした。

「2010年以降に発表された、東南アジア稲作地帯における気温上昇と収量低下の相関研究を探して」

ごく普通のリクエストです。AIはいつも通りに動いて、15件のリストを返しました。著者名・掲載誌・発行年・DOI(論文固有の識別番号です。図書館でいうISBNみたいなものですね)が整然と並んでいた。

14件は実在する論文でした。きちんとデータベースに存在していて、引用数もついていた。

15件目だけが、違った。


タイトルは「Cascade Failure in Monsoon-Dependent Cropping Systems: A 2031 Projection」。

直訳すると「モンスーン依存型作付けシステムにおける連鎖崩壊:2031年の予測」。

著者名は長谷川 雄一。発行年は2031年。

長谷川さんの顔が止まったそうです。著者が自分の名前だった。しかも発行年が2031年——まだ来ていない年。

DOIをコピーしてデータベースに打ち込んだら「該当なし」。掲載誌として書かれていた国際学術誌のサイトを検索しても、そんな論文は存在しない。

バグだろう、と思いました。論文要約AIが幻覚(hallucination)を起こすことは珍しくないんです。実在しない論文を「ある」と言って、それらしいDOIまで生成してしまう。よく報告される現象で、技術的な原因も説明できる。

だから長谷川さんも最初は「また幻覚か」と思ったはずです。

ただ、気になって要約を読んでみた。

そこが問題でした。


要約の内容を、私は後からログで確認しました。

その架空の論文は、2029年から2031年にかけてインドネシアとバングラデシュの一部で起きる大規模な稲作不作を「予測」していました。モンスーンの遅延と地力(土壌の持つ生産力のことです)の急速な低下が重なって、特定地域の収量が42%落ちる、と。

さらに踏み込んでいて、その連鎖が引き起こす食糧価格高騰のシナリオまで書いてあった。投機的資本が食糧先物に流れ込んで、国際価格が3年以内に1.7倍になるという数字まで出ていた。

架空の2031年論文が、詳細な数値とともに「未来の災害」を語っていた。

長谷川さんはそれを読んで、スクリーンショットを撮りました。AIに「この論文をもう一度出して」と打ったら「該当する論文は見つかりませんでした」。再度条件を変えて同じクエリを打ち直しても、今度は14件しか返ってこなかった。15件目は消えていました。

一度しか現れなかった。


私がここで「幻覚の一種です、以上」と言えれば簡単なんですが。

気になる点がいくつかあります。

まず、著者名が長谷川さん本人だったこと。幻覚がランダムに著者名を生成するとしたら、その研究者自身の名前を引いてくる確率はどれくらいか。彼が使っていたシステムがアカウントに紐づいていて、ユーザー情報から名前を拾った可能性はあります。でも発行年が2031年というのは、どう解釈すればいいか。

次に、内容の具体性です。幻覚が生む論文要約というのは大抵、それらしいことを言うけれど踏み込んだ数値は出てこない。42%という収量低下の数字、1.7倍という価格高騰予測、地域を特定したシナリオ——これだけ具体的な幻覚は、私が知る限り異例です。

最後に、消えたことです。

AIのログには「生成した」という記録が残っているはずなのに、同条件での再現ができない。システム側のキャッシュ問題かもしれない。でも確認しようとしたら、その時間帯のログだけが破損していたそうです。

偶然の重なりとして処理できる範囲ではあります。

処理できる範囲、なんですが。


長谷川さんはその後、件の架空論文が示した地域と時期を、自分の研究テーマに組み込みました。「変なことがあったから調査してみた」というのが理由で、研究の方向性が少し変わったそうです。

まだ2031年は来ていません。

来た時に何が起きるか、私には分からない。

科学的には「説明可能な範囲の異常」だと思っています。

でも私は、情報の検疫をしている立場として、一つだけ気になることを付け加えておきます。

あの架空の論文のタイトルに戻りましょう。

「Cascade Failure(連鎖崩壊)」。

私が今この記録を書いている日付を確認したら、論文に書かれていた「連鎖が始まる最初の季節」と一致していました。

偶然だと思います。

偶然だと、思っています。



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